心の不調を訴える子どもが増えているらしい
それは大人もそうだ
私は想う
生きるにおいて、「常識」や「正論」、「規則」や「あるべき姿」、「理想」等々、潜在的にも顕在的にもその人を取り巻くそれらが増え過ぎた。
それらの多くは実に短期的な視点で作られたものだ。
10年前を振り替えれば、如何にその頃の「常識」が様変わりしているか分かるだろう。
世でまことしやかに「正しい」と謳われているそれらを冷静に見つめてほしい。実に不確かなものであることが分かるだろう。
「子どもを守る」と銘打った。
大人個々人は、長い目で見れば実に移ろい易いこうした「常識」に疑いもなく染まってしまっていないだろうか。
そして、それらを無意識に当然のこととして、或いは前提として、子どもと接していないだろうか。
子どもはそうした「常識」にまだ染まっていない。違和感を覚えることには、素直に違和感を示す。その示し方は様々あると想うが「不登校」もその一つだと想う。
「不登校」を前にした大人は、「学校には毎日通い、楽しく帰ってくる」が「理想」という「常識」から外れたとして慌てる。そしてなんとか「常識」に戻さなければと焦る。
子どもが置いてきぼりだ。
「不登校」にはっきりした理由のない場合(イジメなどはっきりした要因のある場合は今回触れない。何故学校に行きたがらないのか要因が分からない場合を今回は取り上げる)、それは単純に「違和感」を示している、或いは訴えているのだと想う。
そこに子どもにとって納得感のない「常識」に拙速に戻そうとすることが上手くいくとは思えない。
私は想う
まさにそうしたタイミングを、「常識」を疑う機会にすればいいのではないか。決して「常識」を否定するのでもない、フラットに子どもにとって、自分にとって、何がその時の最適解なのか見つめてみるのだ。
子どもとも、「常識」に戻すことを前提としない会話をしてみたらどうだろうか。
ここで子どもに「どう思ってるの?」と迫るべきではない。大人の自分たちですら、その質問に信念をもって答えることのできる人は少ない(世の正論にのっかってうわべな言葉を並べることはできるかもしれないが)。
よってその会話は、まずは大人自身が自分の思いを「常識」から一旦離れて見つめ直し、ある程度整理するという姿勢が大切だと想う。
長い目で見よう。
大人の出社拒否とは違う。守られた、守るべき自律前の貴重な思考錯誤の機会だ。納得できていない「常識」に拙速に戻すことに必死になるのではなく、「違和感」を一緒に見つめてあげようじゃないか。
それができないとすれば、大人側が「常識」に相当に縛られてしまっているか、見つめる余裕が無いかだ。
その呪縛や余裕の無さのしわ寄せを、強権的に「常識」に合わせようとするならば、それは大人のエゴではないだろうか。
「不登校」を問題視するまえに、そうした事象に長い目で、それまでの「常識」に囚われない姿勢で、フラットに会話する余裕を持てていない毎日を問題視したほうがよいかもしれない。
子どもを守る
それは、子ども自身に納得感のない「常識」から守ること。「違和感」があればそれを素直に示す子どもに対して、解を持たず、しっかりと向き合うこと。
私は想う
