週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

若者よ、惑わされながらも気力をもって突き進もう、中年よ、自分の価値観を見極めよう、老人よ、本質を説き理想を語ろう

小生は想う、

若い時分は、その時、その時代、まことしやかに語られる「正しいこと」「あるべき姿」「理想の姿」の論に惑わされ、それを追う、或いは早々に合わないことを悟り反発する、或いは積極的にスルーする。つまり自ずからに沸き立つ価値観がないため、世間の論を軸にして、それに対して追う、或いは反発する、或いは積極的にスルーするしかないのだ。

所詮、語られている「正しいこと」「あるべき姿」「理想の姿」つまりは価値観なんてものは、海を渡れば真逆の評価、価値観だったりするわけで、不確かなもの。それに影響されるべきではないとも言えるが、若い時分は、そうした不確かなものに対しての反応でもいいと思う。なんせ、若い時分に「本当の自分」「確固たる価値観」を求めるのは酷だ。

大切なのは、追随でも、反発でも、積極的スルーでも、とにかく気力をもってあたること。これが歩みであり、成長だと思う。違和感を感じながらも、確信を持てないながらも追随することで、いつか「これだ、この考え方好き、これが得意」という風に繋がる、心からこれが自分の軸=価値観と思える状態に行き着いたらラッキー。でも、そうでなかったとしても無駄にはならない。なぜならその経験が次の章、中年の本質を見極める=自分の価値観を見出す、見つめるということの大きな一助になると思うから。

中年になる。それでもまだ若い時代の価値観=その当時の世論に自分の考えがマッチしていて、なお且つその価値観に基づく努力が実り、花開き、世間的なステータスも確保できていたとしたらそれは本当にラッキーだと思う。当然に運だけではなく、相当の努力もあったと思うのでその点で尊敬にも値する。

でもそういう方って本当に一握りだと思う。そもそも世間の価値観自体移ろうものだから、若者時代の世間の価値観に沿った成功像を求め、長い間努力を重ねても、いざ中年を迎えた時には、時代が変わり世間の価値観が変わってしまっていることも十分にあるわけ。

よって、多くの方にとって、中年になったタイミングで大切なのは、「自分の価値観て何だろう」と自問する機会を設けることではないだろうか。世間に惑わされず、世間に価値観を預けず、自身の価値観が何なのかを考え、それに従った生き方がその後できるようにする。そうすれば幸福感の伴う生き方ができるのはないだろうか。これは中年だからこそなせる業。それまでの経験値があるからこそ、若い時分では難しい、なんとなくでも「これが自分の価値観かな」という感覚が持てる年代だと思うのだ。その機会を設けないと、ズレた価値観に捉われた苦しい努力を重ねることになるように思う。

さて、「老人よ」のくだりはまたにしよう。