週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

妄想力

物想いにふける(スマホ禁止)

妄想する(スマホ禁止)

カフェで物想いにふける機会が極端に減った。お気に入りのカフェが無いということも然ることながら、たまの機会にも、物想いにふけるというよりも、常にスマホをいじり検索をしてるのだ。

明るい未来は、明るい妄想から始まる(私の思い込み)。

できるとかできないとか、事実とか虚構とかではなく、単純に楽しみなイメージをまず持っているか否かが、楽しい未来の到来にはまずもって大切なのだ。

社会に出る前の若い自分は妄想ばかりしていた。勝手きままなドラマをどんどん作り出しては、自分の思い通りにストーリーを展開させていくから、楽しくて楽しくて。

その副産物は、なんとそれらが結構現実化したことだ。

恥ずかしながら妄想の多くはラブストーリーだったが、ほんと大胆な行動をとったりして、またその結果が想定通りの結果に至ることが多かったのだ。

就職もそうだった。それなりに難関といわれる就職口だったが、妄想でストーリーが出来上がっていたためか、妙に自信を持って採用試験に臨んでいたように記憶している。そして結果もすんなりついてきたのだ。

いつからか、こうした都合の良い妄想に時間を費やすことがなくなった。カフェ時間を確保しても、「こうなるためには何をすべきか」とか「現状打破のためにどうするか」など、妙に具体策ばかりを考える時間になってしまい、フラットに「こんなふうな感じだったら楽しいなぁ」的な、とりとめのない妄想をすることが無くなった。

会社勤めを機に、常に追われる、やることがある、そういう環境に身を置くなかで、それらの課題への策を考える必要性の方が圧倒的に大きくなってしまったために、自らの本能由来の妄想をする暇が、気持ち的にも無くなっていたのだろう。

しかし、これからはこの時間を優先しようと思う。

最近ふと思ったのだ。

「努力」とか「頑張る」というのは、自分由来の素直な「理想」に無いものを実現しようとするときに産まれる言葉であり、そういう意味で、「努力」したり「頑張って」いる状態というのは、目指すものを見誤っている状態にあるということではないかと。

何かを積極的に取り組んでいても、それらが自分由来の楽しい「理想」に向けた取り組みであれば、「努力」しているとか「頑張っている」という感覚にはならないのではなかろうか。どちらかというと「楽しんでいる」に近いのでは。

よって、私はこれからは意識して妄想することとし、その妄想になるべく沿った行動で日々の時間を費やしていきたいと思う。

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