週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

向き不向き

子どもの時分に「あなたはこっちが向いてる、こっちは向いていない」と決めつけるのは、将来の可能性を狭める気がしてよろしくないと想うが、中年になると、その性格とおそらく10~20年付き合っている人も多いだろう。

10~20年変わらない性格、性分だとすればさすがにそれをもって向いてる向いていないを判断してもよかろう。

しかしこの10~20年というのが実に中途半端。分かりやすい例でいえば会社。向き不向きを判断できる頃にその組織のど真ん中に位置し、「向いてる」人はいよいよ勢いをつけ、未来に希望を抱き生きる。

一方で「向いていない」人は、「向いていなかったぁ」と気付いたものの、ある程度頑張って馴染もうとした故に、それはそれである程度の地位にあったり。プライベートでは育ち盛りの子ども、つまり守るべき存在がいる。

組織人であればそこからまだしばらく現在の環境が続く。それこそ10~20年だ。

「向いていた」人はこれまでの10~20年を肥やしに、更に10~20年に挑むわけだが、「向いていなかった」人はこれまでの耐え忍んだ期間と同じ期間程度に、違う意味で挑むことになる。

組織を卒業するのも上記の通りで勇気を有する。少なくとも私にはその勇気が無い。

それでもこう考えている。第二の人生への準備をしようということだ。

一つの生活パターンが一生は続かない(特にサラリーマンは)。続ける必要もない。途中で方向転換する勇気はなくとも、そのタイミングは例えば役職定年、例えば定年とが控えており、勇気のない人もきっかけになり得る。それをターゲットに第二の人生に向けた準備をするのだ。

今度は「向いていない」環境に身を置かなくてもいいように、準備をするのだ。

幸せの準備だ。

社会に出るまでは、敷かれたレールに乗ってがむしゃらに社会に出る準備をした。

社会に出ると、その社会(=組織)の求めにがむしゃらに対応すべく動いた。

これからは自分由来の幸せを想い、その実現を、第二の人生に向け準備することがとても大切だと想うのだ。

私の幸せは、お金の心配が無く、心にゆとりがあり、愛する家族との触れ合いがあり、豊かな自然のもと、日の出とともに起床、自分の存在価値を感じながら、自分由来の世のため人のための活動をし、日の入りとともに眠りの準備に入る。健康で豊かな生活が私の幸せだ。

その準備をしよう。