週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

「好き」「楽しい」で生きるのが最強!?

組織の論理が肌に合わずも、それを打ち返すだけの論理突破力も無く、一方で真面目な人間ゆえ、ある意味従順に仕事に勤めてきた。しかし最近はその「従順」な姿勢すらも最近では「悪」とばかりに「もっと突き上げを」と求めるようになってきた。こうしたサラリーマン環境に、いよいよ居心地の悪さを感じざるを得なくなってきた今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

小生は現状のストレスフルな環境、状況を打破すべく、思案、試行錯誤する中で、ふと想ったのです。

基本に立ち返ろう、俺は何を求めているんだ、、、一旦の結論は「幸せに過ごしたい」ということだ。

幸せってなんだ、その手段、方法ってなんだ。

少なくとも普遍的なものって無さそうだ。つまり答えは自分の中にしか無いということ。
育ってきた環境も違い、それぞれの感受性も異なる。それらが年輪となって積みあがって育まれる価値観は、それがそのまま万人と一緒ということは考えにくい。

では小生の価値観ってなんだ。そもそもそれ自体が不確かだったりする(涙)。
もっと分かりやすい判断材料は無いものか、、、
「好き」「楽しい」と感じることに触れている瞬間、没頭している瞬間は「幸せ」な瞬間と言えそうだ。
その瞬間を積み重ねることができれば、その日、その月、その年となり、幸せな人生になるのかも。

一方で、こういうことを考えていると、もう一人の”常識人”が現れて、「努力や忍耐の先にしか幸せは無い」とか、「そもそも幸せがあるというその考えそのものが幻想だ」とばっさり切ってくる。
長年植え付けられた”幸せの条件”的な教えは、時の”成功者(とされる人)”が謳っているからもっともらしく映ってしまう。しかし、よく考えれば、それらは、その人にとっての幸せであり、その軌跡(≒条件や手段)であって、そもそも万人が共有できる普遍的なものでは無い(と想う)。にもかかわらず、戦後の価値観はどうやら「努力や忍耐≒苦しさ を乗り越えた先に幸せがある」といったものだった。それらは幼い時分から刷り込まれているため、その呪縛力は強い。

しかし、しかしだ、ようやくその呪縛から解放されようとしている。少なくとも小生にとってはそれが全てでは無くなった。

さすがに20年ちかくサラリーマンをやっていて、確かに恵まれているところもある。家族がいて、家族は人間的な生活ができて、三度の飯と週末には少しの贅沢。それを幸せと言えば幸せだ。
でももっと個人的な、直接的な、「家族が幸せだから自分は幸せ」とも違う、もっと分かりやすい幸せを感じることはできないものか。

その引き換えに感じる日々のストレスは、上記を覆い隠すほどの力を持っており、これらのストレスと同居する日々の暮らしが「幸せ」かと問われれば、「そうです、幸せです」とはなかなか言えない。

そこでまた思案、試行錯誤が始まる。今、この時、”幸せ”を掴むために何をすればいいのか。

・ストレスの主因たる仕事(≒サラリーマン)を辞める、、、そんな勇気はまだ無い。生きる術、稼ぐ術を持たない中で辞めれば、辞めたことによる新たなストレスが生まれる可能性がある。

・仕事を好きになる、、、その労力(≒費用)対効果は如何ほどだろう。その試みは過去に何度かした。でもダメだった。だから今でもストレスなのだ。
※サラリーマンであることをストレスに思わない人もいる。できるサラリーマンの方を見ていると、客観的には生き生きと仕事に取り組んでいるように見えるのだ。

・好きな仕事に転職する、、、またサラリーマンか。上記の通り、好きは千差万別、ひとそれぞれ。ついては小生の好きに合致する仕事(≒組織)などあるのだろうか。近い仕事(≒組織)はあるかもしれない。よってストレス軽減にはつながる可能性がある。

・仕事は仕事と割り切り、帰宅後には副業など稼ぐ術を育て、自由獲得のための模索を継続する。

いずれも、生きる術、仕事を中心にした考え方になってしまっている。
なんか違うんだよなぁ。もっと根本的な転換、目指すものはないだろうか。

そこで想ったことが「好き」「楽しい」を中心に生きるというもの。
とにもかくにも、「好き」「楽しい」を中心に生きてしまう。行動の起点を「好き」「楽しい」にしていまうということ。
世にいう成功者って結局のところ、その仕事なりなりを「好き」だったり「楽しい」と思っている人だと想う。苦労話や客観的に大変なことを乗り越えて的な逸話は、あくまで他人にとっての逸話であり、本人はさほどの苦労ではなかったのではないかと想う。

そうだ、「好き」「楽しい」で生きることが最強なのかもしれない。

そこで、欲するのが、「好き」「楽しい」で生きた方の事例。
サラリーマン系や起業系の事例や成功物語は巷に溢れているが、それ以外で「好き」「楽しい」に従って生きた方々の結末といった事例を今まで目にしたことが無い。

結局、サラリーマンという一つのベースの上の事例は示す対象が多いから出版社も手掛けるが、それ以外は「好き」「楽しい」が分散し過ぎてしまい、取り扱いにくいのかもしれない。
一方で、今は個人がSNSやブログなど発信できる時代。きっとそうした発信をしている人もいるのだろう。

しばらく、探してみるか。
それで、実は「好き」「楽しい」に従って生きたことで、日々の幸福感(幸福の尺度は当然千差万別であろうが、各本人が幸せと思っていることが重要)の高い事例が多くあれば、安心して飛び込める。

足元、取り組むべきはそうした事例を見つけることのよう。