週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

自由とベーシックインカム

自由か。

どこぞの国、どこそこの人との比較ではない。自分自身の感覚で自由と想うかどうかだ。

不自由だ。

この感覚は何に由来するのか。

サラリーマンの小生でいうと「生活の糧」を自分以外に依存していることに由来するのではないか。属する組織からの離脱が、そのまま「糧」を失うことを意味する状況が、不自由さの感覚に繋がっているということ。

つまり、その組織を好きであろうとなかろうと基本的にはその組織から与えられたミッションに従わざるを得ないという「強制」感があるのだ。

もし一生の生活が足元で保証されていれば、仮に組織に属したままでも、不自由さの感覚はそれほど大きくないだろう。要はいざとなったら大手を振って離脱できるという安心感があるからだ。

ベーシックインカムの議論があった。人間らしい生活を最低限できるだけの資金を支給するというものだ。カナダで実証実験が行われたが政権が代わり中途半端に実験は終わったらしい。

財源の問題はあるだろうが、これが実現すればかなりの人が「自由人」になると想う。まず財源の問題が議論されるだろうが、世界の超富裕層1%が資産の37%を保有し、下位50%は資産の2%を保有するに過ぎないという現実を鑑みれば、財源は過剰の極みたる1%の層から賄えばいい。税の公平性を唱える人もいるだろうが、社会や経済にはびこる不公平を考えれば、税の公平性などは優先順位の低い議論ではなかろうか。税を「不公平」に「超」富裕層から徴税しても、彼らの生活に大きな変化はないだろう。なんたって使い切れないのだから。一方で貧困層は日々苦しんでいる。中間層と呼ばれる層ですら日々不安と戦い神経をすり減らしている。であるならば、ベーシックインカム制度導入でいいではないか。格差社会改善にも資するものだ。ベーシックインカム制度のもとでは、その制度上で発生する格差について不満が起こりにくいと想像する。何故なら現状の格差への不満は「私達だって頑張っているのに」極端に差がつき、更に日々の生活にも不足を強いられるからだ。頑張らなくても生きるだけの資金が提供される前提がある社会においては、格差はまさに頑張ったか頑張っていないかの結果ということがより鮮明になるため、「頑張っていない」側からすると納得しやすい。

まだまだベーシックインカムの効用はいくつでも挙げられる(想像に過ぎないが)。一方でそれは不自由さを日々感じ、そこからの解放を強く望む小生が故なのかもしれない。

本屋に行った(突然どうした!?)

そこには色んな分野の本があって面白い。これらの文化や教養って、ゆとりの中からのみ産まれるわけではないのだろうが、それらを読む側は、それなりのゆとりがないと手を伸ばせない。ついつい今の生活や仕事に直結する本ばかりを手に取ってしまうのだ。あ~、もっと「自由」だったら寄り道するのになぁと想った流れで、このブログに至る。

皆さんはどう思っているのだろう、、、