週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

MISIA コンサートを終えて

拝啓 MISIAさん

イヤーとっても良かったです、星の降るコンサート。

MISIAさんの生の歌声を聴く初めての機会でしたが、その歌声も然ることながら、歌に込める魂の振動に、私はそれこそ奮(ふる)えました。

歌や声って、単に音をのせるだけでなく、歌い手の想いをも確実にのせるものなんだなと、あらためて感じた次第。

あと気付いたことがあります。

このコンサートでいえば、MISIAさんの歌を核に、会場が一つになるということ。

「会場がひとつになる」って、フレーズとしてよく耳にしますが、その意味を、自分なりに納得することになりました。

私は硬めのサラリーマン。どうしても歳や風貌で、自分はこういう感じでいないと「変」みたいな意識があり、それが邪魔をしてノリノリの気分なのに、それを素直に表現できなかったり、感動でもっと泣きたいのに、それを圧し殺したり。

コンサートの始め頃はそんな感じでした。それは私に限らず、どなたにも多かれ少なかれあったと思います。色んな人がそこにはいたのです。

しかし、MISIAさんの歌が続くにつれ、雰囲気は少しずつ変わっていきます。確かに老若男女がいて、一言に男と言っても若いのもいれば、おじさんもいる。一言に若者と言っても所謂MISIAさんの歌を良く分かっているのもいれば、たまたま来ましたというのもいる。それでもMISIAさんの歌が進むにつれ、その場にいる人が皆「MISIAさんの歌に引き込まれている人」に統一されていくのです。

するとおじさんだ若者だ、男だ女だが関係無くなってくる。感動の仕方、その表現の仕方も関係無くなってくる、これはすなわちそれぞれが、それぞれの素直な気持ちを、素直にそのままに表現できる、つまり変な殻が取り除かれるのです。

だから私も普通に泣いた、隣にいたスーツ姿のいかにも堅そうで、且つ物静かそうだったおじさんも、だんだんと手拍子や、腕振りをするようになっていました。

話は少し脱線しますが、そのおじさんは一人で来ていました。始まるまでの間、膝に拳を揃えてしっかりと着席されていて、何か居心地の悪そうな雰囲気すらありました。あまりこういうコンサートに来ることがなかったんだろうなと感じましたが、それでも来たいと思うくらいMISIAさんが好きなんだろうなと優しい気持ちになりました。そんなおじさんがコンサートが進むにつれ嬉しさを解放して、手を振るなどして表現するのです。

おじさんはコンサートが終わると、混雑が少し落ち着くまで席でまたきちんと座り、大きなため息(よかったぁ)をついて、静かに一人帰っていく姿は、なんとも可愛いというか渋いというか、素敵だった。

それもこれも、結局はMISIAさんの高度な歌唱力と、そこに入れ込む清んだ、そして力強い魂の想いがそこにあるからです。

感謝!

アフィリエイトを利用しています