週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

子どもに学ぶ

子ども。それも低学年までか。

その時、その瞬間、自分の興味のあることを自然と最優先し、興味のないことは、その将来の必要性やら重要性如何に関わらず後回し。

子どもに学ぶ。

これは我々中年こそが学ぶことのように想う。その年代に低学年くらいまでの子どもを持つ世代が多いのも、意味を感じる。学ぶ存在があるのだ。

中年まで(今もそうだが、、、)組織を優先し、必要だ重要だと言われることを、興味の如何に関わらず追い、我慢の多い人生を歩んできた。

社会に生きる以上、それはそれで意味があり、それこそ必要な時間だったとも想う。

よって、そういうステージだったのだ。

しかし中年以降のステージは、それとは違うように想う。成長、成長ではなく、成熟をもう少し意識したらいい。

成長を止めたら衰退だと脅迫じみたことを声高に言う人がいるが、そういう人は、本当に歳を取り、体が言うことをきかなくなり、嫌がおうにも老いていく段階にたったとき、それでも成長と叫ぶのだろうか。

私は80歳を超えた人生の先輩が、成長だ成長だと謳っていたら、少し幼稚さを感じると思う。明るくかわいらしい幼稚さは微笑ましく魅力的だが、所謂若者世代と同じことを述べていたら、それは痛々しく映る。

所詮成長だ成長だと謳う人は、今現在ノッてる人だろう。

成熟を少し意識しよう。

成熟とは、自身の満足感に由来するのではなかろうか。外の評価基準になく、自分から沸き立つ、ほのかでもいい、満足感だはないか。

ではそれはどうやって得られるのか。

そこで「子どもに学ぶ」なのである。

我々は小学校高学年の頃には「こうでなきゃいけない」「こうあるべき」的なあってないような常識に囲まれ、社会に出ては(特に組織に所属する人は)、より特殊な常識を叩き込まれ、そうした環境のもと30年程度過ごしてきた。

恐ろしいことに中年とは40代から50代だろうから、これまでの人生の半分以上を、何かしらの気持ちの調整をしながら生きてきたのだ。

中には素直に生きてきましたという方も当然いるだろうが、それは少数派(だと思う)。多くはある程度自分を圧し殺して生きてきたと。

その度合いは次の質問を投げかけたときの状況である程度判断できるように思う。

「自分は何が大好きですか」「自分はどんなときに幸せだなぁと感じますか」

この質問に窮するなら、自分が消えかかっている可能性有り。つまり長く自分を抑えすぎて、自分の素直な気持ちすら分からなくなってきているのだ(と思う)。

子どもに学ぶ。

子どもは自分の気持ちに素直に行動する。それに従っていきているときに、実に楽しそう。そして次々に興味を繋いでいき、その消化に全精力を注ぎ、限界のところでバタンキューと眠りに入る。幸せそうだ。

一方で、その自由を奪われる(あぁだこうだと納得も実感もない常識を押しつけられる)と、本当に嫌そうにする(小さな子は泣き叫ぶ)。

幸せのヒントは子どもにもある。もっと自分に素直に生きるためにどうしたらいいかを考えよう。成熟を意識しよう。

ゼロか百でなくていい。

よし、考えてみよっと!