週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

楽しみの見つけ方→学校の大罪

楽しみを見つけることは難しいことか。

難しいのかもしれない。

楽しそうにない人は、目先いっぱいいっぱいでそれどころでない人、時間も余裕もあるが、人に、世間にどう思われるかといった所謂常識に縛られて、その枠外に想いをはせることができない人、大抵このパターンではなかろうか。

前者はそこから逃れられさえすれば、楽しみが見つけられないという問題は解消しそうだ。

だが後者はなかなかしぶとい問題。なんたって育つなかで積み上げられた負の遺産とも言えるもので、その呪縛は簡単には取り除けない。

もはや頭で分かってもという世界だ。

こうした呪縛はどうやって形成されるのか。「学校」の影響が甚大だと想う。

先の「授業参観」の項でも述べたが、いまだに型にはめる仕組みがはびこっている。「常識」を刷り込む仕組みだ。

学校はむしろ「常識」なんてものは無い、幻想だと謳ってほしい場だ。

子どもは染まりやすい。すぐに多数派が出来てしまう。それは少数派ができることでもある。少数派はそもそも派閥にならない。つまり孤独だ。孤独とは多数派があって初めて成り立つ。個々が、皆個々なら、「皆が個」という共通項によりある意味の多数派になり、孤独は生まれない。

秩序を維持することと、「常識」に染まらせることは違う。目指すはそれぞれは個性を保ちつつも、人間一人では生きていけない故に思いやりをもって生きるなかで、秩序が形成されることだと想う。

小生は悔しい。

あの闊達で明るかった子が、みるみる静かになり、無気力になる様子を止められない。

学校を休んで単にだらだらするのは良くないが、違う世界を見るために、体感するために(演劇を見るでもいい、講演を聞きに行くでもいい、コンサートでもいい)休んで活動することは、学校としても推奨するべきだ。

それにしても不思議だ。小生と同じように想う人は少ないのだろうか。だから変わらないのだろうか。

実は自分の思い込みなのだろうか。

歯がゆい。実に歯がゆい。共感するかたは、少なくともその気持ちを忘れないでほしい。

もっと自由を!!