週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

日本人よ、本質を見失ってないか?

人という動物が生きる

人という動物もまた1人で生きることができないため、或いは助け合うことが生存率を高める、或いは豊かな人生を実現できるという判断から、共同体を形成し、そうはいっても共同体を乱す個人や集団が出現したため、ルールを作るなどして秩序立てた。

共同体の規模が大きくなればなるほど、助け合いの効力は大きくなる一方、一体感の維持が難しくなり、それに伴って法律やら規則やらルールが増え、複雑になってきた。

今やルールが幅を効かせ過ぎて、なんのためにこのルールができたのかという起点が忘れ去られている感がある。

身近なところでいえば、校則問題。何故この校則があるのか誰も説明できない事象が頻発するなどして、見直しの機運が出てきているのは良い例だ。

こうした例は特に日本は顕著だと想う。

例えば信号。誰も通らない田舎の信号でも、青になるまで待っている情景は日本くらいだと想う。

原点、起点は「人が生きやすいように」だ。これがルールを守ることそのものが目的化して、生きづらい仕組みになってはいないだろうか。

小生の会社にもややこしい人がいる。

ルールや手続きに拘り、融通とか余地を許さない。相手(お客さん)のある仕事において、こちらが勝手に設けたルールに拘っても、相手にそんな拘りは無いわけで、そのギャップが無駄や不満となる。確かになーなーになっては、無秩序となる可能性もあるため、指針となるルール作り(秩序作り)はある程度必要だが、それはあくまで組織なり社会が動きやすい(生きやすい)ためのバランスを考えた程度であるべきだ。

ルールにより、動きにくい(生きづらい)とあってはまさに本末転倒なのだ。

もっと自分達は動物なんだということを想うべきだ。ルールを作る高尚な存在だなんて思うべきではない。

今はルールありきの仕組み、色合いが強すぎる。日本は生産性が低いとされるが、その要因のひとつに間違いなくこのルールを重視し過ぎる文化があると想う。DX化だなんだもいいが、この観点も是非忘れないでほしい。

少なくとも小生は、仕事場で、このルールとやらに拘る事務方のある人間に対し不満がひたすらに高まっている。

頼むからなんの為のルールなのか、過ぎたるは及ばざるがごとしとならないようバランスを求む。

仲良くやりましょ