もともとは仏教語とのこと。
意味も「我が強い。おごりたかぶる心」といった良くない意味だったらしい。
それが転じて「耐え忍ぶ」という現在の意味で使われるようになったということだが、何れにしたって良くない意味だと想う。
「耐え忍ぶ」のは何のため?
最近自分の性格が変わってきたように感じる。以前は人の目を気にし、評価されたいと思い、その為に従順な性格をしていた。それこそ我慢しながらも、それが当たり前のように感じていた。
ここ1、2年は明らかに変わった。評価されたくても、評価されないことが続いたことも大きかろう、その為に費やす労力が結果と見合わないことに納得してしまったのだ。
そうなると、「できる限り」に心も行動も留まる。手を抜くわけではないから罪悪感は少ない。昔は無理をしないことに罪悪感を感じたものだが、無理はするべきではない。組織はどこまでも、そして継続的に無理をさせるものだ。自分を確かにもって、それに対峙しなければ潰れることになる。
いやぁ、あの従順な頃の自分からするとひねくれた感は否めないが、それでも今の方がしっくり、納得感もある。
しがなくなったサラリーマンは、早々に次の人生の振り方を考えよう。明るさを持ってね。
しっかりと経験を活かして、自分がなるべくありのままでいられて、活動が自分由来の動機、或いはその活動の結果がなるべく納得できるような、そうした前提で探索してみよう。
さすれば「しがない」や「我慢」のこれまでが活かされるってものだ。