週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

最近響いた言葉、或いは観念。「~がある」。

自分の心持ちの平穏や、人生の納得感を求め、限られた自由時間の中で、その答えを探す日々。

そんな中で久しぶりに出会った響く言葉、或いは観念が「~がある」だ。

仏教的な観念であろうか、過去にも触れている言葉だが、久しぶりに思考するタイミングを得た中で触れたせいか、妙に心に響いた。

近頃は「ポジティブシンキング」的な物言いに触れることが多いせいか、ものの捉え方について、「~もある」と捉えることでポジティブになれるという風潮に流されていた。

一方でそう思えない自分もいて、「~もある」と捉えるべきなのに、そう捉えられない自分とのギャップに罪悪感を感じたりして、「ポジティブシンキング」という考え方そのものに違和感も感じ始めていた。

要は「それができたら苦労しないよ」なのだ。

世の中には、特に日本には、こうした人間が不完全であることをまるで無視した「正論」がはびこる。

これらも技術と割り切り、訓練で手にできるものだと言われれば、それはそうなのかもしれない。

しかし、我ら中年サラリーマンは日々ストレスに触れざるを得ず、また、これでもかとネガティブ情報の降り注ぐ環境下、それでも「ポジティブ」に捉える技術を入手するための訓練とはどんな訓練なのだろうか。あったとしても、それをクリアする自信はない。

そこで触れた発想が「~がある」だ。

「~もある」でも「~しかない」でもない。あるがまま「~がある」なのだ。

そこに不必要に感情をのせない。ネガティブ感情を抱きやすい私はとくにだが、感情をのせて自分自身にマインドコントロールをかけないようにするのだ。或いはこれはストレスだと無駄に認識しないようにするのだ。

この観念は「無視」するのとは異なる。或いは「虚無」とも違う。どちらかというとその逆だ。

それらの事象なりを自分の勝手な感情をのせず、ただフラットな視点でじっくりと見つめるだけ。

ある作者はその過程で感謝の念が生まれるとさえ述べている。

私はまだその域に達していないし(それゆえに)実感はわかないが、無駄に自分をネガティブに追い込まなくなり、その場面、現場を離れたところでも苦しむという状況は緩和された。

その観念は他にも派生した。つまりネガティブがどうとかではなく、「思い込み」からだいぶ解放されたために、普段我慢していたことや、「べき論」から選択していなかったことなどにも、とりあえず「やってみよう」という感じになったのだ。

「~がある」の発想は、自分で自分を追い込んでいた思考のくせ(ネガティブ思考)や、自分で自分を縛っていた納得感のない「べき論」から、少なからず解放してくれたのだ。

さらに拡げて大袈裟なことを言わせてもらうならば、その思考に基づくと、人生の指針もとくになくなり、何が正しくて何が正しくないといったものもあやふやになる。

いまの時分、それでいいような気がする。それで不安になることもない。なぜなら今まで「~べき論」に縛られていたが故に、それに沿った生き方ができるだろうかと、まだ身に起こっていないことで自分を追い込み、不安を発生させていただけではないだろうか。

逆に「~がある」の発想で、今にもっとフォーカスし、大切にし、自分由来でない固定観念に縛られない、つまりは自分に素直な心持ちで選択し生きる、その積み重ねが結果として人生になるとなれば、そのほうが不安を抱える理由も減ずるし、納得感のある人生になるのではないか。

不確かな、ある意味ブームであーだこーだ言われる、何の責任も取ってくれない、その時々の「正論」に、自分の思考を預けたり、自分の気持ちを押し殺して、もっと言えば罪悪感まで感じて生きる必要なないのだ。そんな生き方をするべきてはないのだ。

そうは言っても社会に生きる以上、最低限合わせるべきことはあると想う。但し最低限でよい。

さぁ、中年の皆様!我々は十二分に世の移り変わる常識に振り回されながら、真面目に生きてきた!

今こそ素直な気持ちに則って生きよう!