週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

生きるとは

息をする、歩く、笑う、泣く、悩む、悩みたくないと思う、寒い、恥ずかしい、きれい、優しい、好き、苦手、戸惑う、羨む、興味ない、疲れる、希望に満ちる、不安になる、可哀想に想う、乱れる、少し、感動する、苛立つ、なんとかしようと思う、なんとかならないかと思う、神様に願う、神様の存在を疑う、人ってほんとにいろんな人がいるなと希望を持ったり幻滅したりする、旅を楽しむ、体調を悪くする、薬をけぎらいする、ぐっすり寝れた朝に気分があがる、大丈夫かなと思う、寝る、心配する、ほっとする、、、

そんなことをひたすらに繰り返し、時間を費やして、心身を更新し続けることが生きることなんだとすると、生きるに正解も不正解も無いように思えてくる。ただ「ひたすら」なもの。

そして人生とは、生まれて、生きて、最期に死ぬ、ということ。生まれると死ぬは一瞬だから、人生とはほぼ「生きること」なんだな。当たり前か(笑)

正解も不正解も無いとすれば、自分に素直に、生きたいように生きればいいってことだ。それで成り立つように想う。今日のところは私は性善説に立とうと想う。さすれば自分に素直に、生きたいように生きることこそが、その人の幸せに最も近い生き方になるのではなかろうか。その集団が社会なら、その社会は素敵な社会になるのではないか。

自分に素直に、生きたいよう生きるためには、人の目を必要以上に気にしないこと。

そのためにはどうしたらいいのだろう。

一つは孤独を恐れないこと。人の目を気にするのは、自分が浮くことで近しい仲間から外れてしまう、違和感を覚えられてしまい、その仲間内でことがスムーズにいかなくなることを恐れるが故なのだろう。

一理ある。しかし自分を仮に圧し殺して人に合わせることが、はたして「スムーズ」を実現することになるのだろうか。それよりも、そうした相手とは損得のドライな関係性と割りきり、それを前提にした付き合いをした方が「スムーズ」且つ長続きするのではないだろうか。心のオアシスは他に持てばいい。

次にその心のオアシスについて。小生にとってそれは家族になる。故にオアシスがオアシスたらしめるためには、家族の心が穏やかで明るい状態であることが、とても大切。そのため、自分としてはそうなるように結構心を配っている。

心のオアシス、、、ありのままを出せ、穏やかな気持ちでいられる、そういう状態でいられる他者との出会いがあればそれはそれで結構だし、いなければ、出会うまで当然に孤独でもいいのだ。今はWebで世界中と繋がる時代だ。生身の人間との出会いは難しくとも、世界に結構な人数、ありのまま、自然体のあなたに(あなたの価値観に)共感を示してくれる人は存在するはず。なるべく自然体で生きることを意識しようとあらためて想った次第。そして孤独になっても心の孤独を感じなくてもいいように、Web上での発信と、それを見て共感してくれる人との繋がりを構築するスベを、身につけたいと想った次第。