週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

気づいてしまった。子どもに向かって発する言葉は、自分に向かっての言葉でもあることに。

子どもが相談してきた。

上級生のチームから、試合に出るための人数が足りないから参加してほしいとの打診を受けたとのこと。以前も同じ理由で参加、思いのほか活躍したことを上級生チームの監督の目に留まり、今回もお誘いを受けたようだ。

光栄な話。

しかし本人は、実力不足の自分が、上手い上級生チームに参加することに、とても緊張するようで、どうしたらいいと思う?と相談してきたのだ。

いつもの私なら、「参加すべし」となんだかんだともっともらしい言葉も添えて推すのだが、今回は私も迷った。

確かに前回は予想以上に活躍したが、たまたま感が否めない。実力差はまだ大きく、今回参加することで自信を失うかもしれない。前回は下級生仲間も多く参加していて、いつもの練習の雰囲気もあったが今回は下級生仲間も2人のみ。なんとも孤独だ。私は珍しくアドバイスに迷ったのだ。

そしてこう伝えた。「いつもならこうした方が良い、悪いの答えを出せるんだけど、今回はどうした方が良いのか迷ってる。●●もそうだろうから、そういう時は胸に手を当ててどうしたいかで決めてみたら?こうするとどうなるこうなるってあまり考えずに、どうしたい、したくないで決めてみたら?」と。

「胸に手を当ててどうしたいかで決める」、、、良いこと言うなと。

答えに自信がないときは、正にこうして決めればいいではないか。

「やった後悔とやらなかった後悔は、やらなかった後悔の方が強い」とか、「やってみなはれ」とか、様々言われるが、それらはどこかでやりたい、してみたいという気持ちがあるときに生きる言葉。

まずは自分はどう思っているのかに気づく必要がある。それは、頭でどうこう考えるのではなく、それこそ胸に手を当てて無意識の気持ちに問いかけるのだ。

●●はそのあと「行ってみる」という結論になった。

私自身、これからどうなるか分からない選択をする場面が近づいている。その時、迷うことがあれば、胸に手を当てて自分に問いかけてみようと思う。

いざ