週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

拝啓 神様へ

◯◯と申します。

なんとも言葉にできない気持ちを吐露しようにも、吐露したところでどうなるでもないという気持ちもあるために、そんなこよを吐露できる相手もおりません。それでも吐露しないではおれない状況を迎えて、最終的に神様にお便りすることにさせて頂きました。

私は人生の折り返しを過ぎたであろう年齢になりました。

日々忙しくストレスフルな毎日を、とにかく必死に過ごしているといった状況です。これまで耐えて耐えて生きてきましたが、年のせいかほとほとこうした毎日が続くことに嫌気が差し、こうした現状をなんとか打破したいともがいているところです。

ここまでの短い吐露の内容だけでも、客観的にみたときにいくつものツッコミポイントがあるでしょう。

しかしそれらは客観的には正論かもしれませんが、本人的には正論ではありません。本人的な正論とは、この私の特徴を以てして幸せになる方法論です。

本人由来の趣味、志向、本人の置かれた環境等々を前提にした方法論です。

こう考えるとそもそも客観的な正論などというものは存在しないのかもしれません。それでも人の趣味、志向には同調圧力などを経て「傾向」が造り出されるため、「傾向」に居る人には客観的な正論がそれなりに有効なのかもしれません。

私はよく変わってる、レアと言われます。つまり「傾向」に居ない人ということになります。それゆえ世間に溢れる正論を意識しながらも、自分の正論を探す必要が出てくるわけです。

実は人はみなそうなのかもしれません。

難しいのが、「傾向」に流されているがために「正論」は分かっていても、それに見合わない現実により幸せの状態になかなか至らない、或いは「傾向」には居ないがために正論を自分で導き出さなければならず、これがそんなに容易でないがためにこちらもまた幸せの状態に至らない、どちらも至らないということになりがちだということです。

最近想うのは前者はこれまで、ある意味挑戦してきて実現できなかったわけですから選択肢に非ず、です。後者はそれこそ人生の折り返しを迎えて試行錯誤している、つまり自分なりの正論を求めることだが、今の私が選択したものだ。

自分なりの正論に至るためには、いろいろ試していくしかないと想う。その試す基準は世間の論になるべく引き連られないよう、自分が好きか嫌いか、やるべきと思うか思わないかとし、即行動することに尽きます。

後悔はしたくありません。

「やった後悔よりも、やらなかった後悔のほうが大きい」とはよく言われることだが本当にそうだと思います。年齢を重ねればますます。

神様、つらつらと述べましたが、本当はパッと教えて欲しいのです。もっといえばパッと幸せな状態にしてほしいのですが、そういうわけにもいかないようですので、引続き頑張ります故、見守って下さい。

またお手紙します。