週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

旧友との再開で想うこと。「挑戦」体質の育み方を考える。

10年振りかもしれない。

不思議なタイミングで先日連絡を受け、本日会うことに。

お互い太ったり、少し頭皮が薄くなったり、当然にこの間に様々な経験を積んだりと、当時からの変化はあるものの、人柄や会話のしやすさは変わらず、会ってベンチに座ったと同時に、2時間30分のトークが弾んだ。お互い缶コーヒー片手に。

想った。

時が経つのは本当にはやい。

それでも守りに入ってしまうのはなぜだろう。

生命の危機を感じないからだろう。

貧しく生きることに満たされていない人は、「たくましさ」があり、脱け出すための行動力がある。

私のような守りの人間が、様々なストレスに満ちつつも、生命の危機を感じることの少ない日本においては、どうしても挑戦に至らない。

それでもじわじわと心身が蝕まれていると思われるにつけ、この現状の打破は私の至上命題だ。

そこで上記を踏まえ挑戦する体質へのヒントを現段階で考えてみる。

①身体的苦痛を与える…潜在的に生命の危機を感じやすいのではないだろうか。例えば限界を感じるまで腕立て伏せをしてみるとか

②「こうしないとこうなってしまう」と現状の先に最悪状態が待つことをイメージする……翻って「こうすればその先に最高状態が待つ」ということを具体的にイメージする。つまり何をいつまでにどうやってやることで、どんな風になるのかのイメージをもって取り組む。

③挑戦した結果を得る…小さな望ましい結果が道中に感じられるような工夫をし、挑戦への信頼感を高める。

④もっと死を意識する…明日死ぬと思えば、守らなければならないものが圧倒的に少なくなる。つまりは失うものがない故に挑戦がしやすくなるという発想。但しこれについては、私はまぁまぁ意識しているタイプとの自負があるので、それが良い作用を生んでいる部分もあるが、こと挑戦体質に繋がっているかというと不十分。もっと強く意識する必要がありそうだ。

とにかく「生命の危機」という観点で、どうしたらそれを感じ、原動力とできるかをしばらく考えてみようと想う。

漠然とした不安や中長期の不満ではなく、年老いていく中での心身のガタでも無い、ましてや事故といった不慮的なことでもない。「衣食住」が維持できない的な、それも短期的な危機感≒生命の危機感を、どうやって自分に感じさせることができるかだ。

答えを探そうと思います。